ああ、なんたって憎らしいくらいにいい天気なんだろうか。
青空はどこまでも澄み切っていて雲ひとつないし、おかげで御剣の階梯とやらも穏やかにすら見える。こんな日にどこか草原でごろーんと寝転がったりなんかしたらきっと、通り過ぎる風なんかが穏やかに昼寝心地にさせてくれるんだろう。
けどそれが出来るほど暇じゃない。ええ、まったく暇じゃありませんとも。悲しいことに。
とりあえず今の状況を整理しよう。頭の中でやけに冷静な声がする。誰の声だ。ああ、俺のだ。
今俺は全速力で帝都の中を走り抜けている。この歳では正直きつい。が、考えるべきはそこじゃない。
何で走ってるかって言ったらそりゃ、連れの、というか俺が付属品なわけだけどそれを言ったらややこしいから連れのということにして、その青年がお茶にでも誘うような気軽さで「逃げるか」なんていったからだ。
と言っても俺はすぐ傍でそれを聞いたんでなく、遠目から見て青年がそんな風に口を動かしたってのを見ただけだ。よって俺は他人のふりをしてれば良かったはずなんだけど、なぜか青年がこっち方向に逃げてきたもんだから一緒に逃げる羽目になったわけ。
以上。状況整理終了。
そうしてる間にも目に映る景色はどんどん後ろへ流れていくし、青年はいつの間にか隣を走ってるし、どうしろって言うんだろうかこれ。
て言うか、俺逃げる必要なくね?別に逃げることなにもしてないよね?
たぶん追いかけてくるのはルブランだ。「待てー!ユーリ・ローウェール!!」なんて声がドップラー効果で聞こえる。こういう風に青年をフルネームで呼ぶ人物は、俺の知る中でルブランと、ソディアとか言うあの堅物副官のおねーさんだけ。ついでに言うと、おねーさんだったら追いかける以前に絶対乱闘になってる。何をそんなに青年が恨まれてるかは知らないが。
とにかくそういう訳で俺は逃げているのでありました。まる。
うん、どう見ても成り行きだ。俺、ルブランに追いかけられる理由なんかないし。
「おい、おっさん」
ふと、隣にいた青年の声がした。何だい青年、と言いながらも視線は向けない。つかそんな顔まで向けたらたぶん転ぶ。
何であんたまで逃げてんだよ。と声が続いた。あんまりだ。誰のせいで逃げる羽目になったと思ってるんだか。
普通に話してるなら恨みがましい目のひとつでも向けるところだし文句のひとつも言いたくなるところだったが、無駄に体力を消耗しそうなのでやめておく。騎士団隊長主席とかなんとか言われようと、寄る年波には勝てませんし。
とりあえず無言の抗議を実行してみたら、それなりに伝わったらしい。ああ俺のせいか悪かった、なんて、実に心のこもっていない謝罪をよこされた。
いや、青年にしてみればこれはそれなりに悪いと思ってくれてるんだと思うのだが。むしろ、この青年に誠心誠意謝罪された日にはきっと、星喰みも裸足で逃げ出すに違いない。まずその前に俺が逃げるけど。
走るのはそれなりに慣れてるしいいわよ。そう言ったら、ふうんとそれだけが返ってきた。ちらっとだけ見てみたら、少し息があがってるようだった。ざまぁ。
とか言う俺もそんなに余裕もって走ってる訳でもないが。
「で、青年」
今度はなにやらかしたのよ?と聞いてみる。しばらくして、何もした覚えはないんだがなとだけ返ってきた。
だったら逃げる必要もないはずなんだけど、この青年の場合はルブランが長年目の敵にしてるもんだから、たぶん何かにつけて逮捕だーといわれるんだろう。
というより、ルブランのやつは絶対この追いかけっこを楽しんでる。口では任務ですからとか言ってはいるが、それはあくまで建前なんだろう。もしかしたら青年を捕まえるって事だけを生きがいにしてるんじゃあるまいか。
そういう旨を伝えてみたら、実に嫌そうな声が勘弁してくれと流れていった。多分俺が青年でも同じことを思う。
なんともいろんな意味で「モテモテ」な青年だ。当たり前だが羨ましくなどこれっぽっちもない。女の子が追いかけてくるなら青年を羨ましがる要素も出来そうなものなのに。
それにしても、ここはいったい何処らあたりなんだろうか。買出しに出てたエステル嬢ちゃんとリタっちも、ちょっと散歩してくるといったジュディスちゃんも、船のことが云々言ってたパティちゃんも、下町の連中と話しこんでたっぽい少年も逃げたんだろうか。もしかしたら逃げてるの俺らだけなんて寒いオチじゃなかろうか。
そういう懸念は、とりあえず目の横に映った路地の中に入ってからしようと思った。けど、青年にそんなこと言う余裕はあんまりなさそうだったので、ちょっとごめんよと前置いてから青年の腕を思い切り引っ張って路地の方に入り込んだ。
おや、思ったより軽い。そんな事を考える間に、馬鹿正直なルブランが待てぇぇぇと言いながら路地を通り過ぎていった。とりあえず、気づいて引き返してくるまでは休めるわけだ。
「おっさん」
とは言え今度は別の問題ができる訳だが。
説明なしでこんなところに引き込まれた青年は、当たり前だが不満顔だ。なまじ綺麗な顔立ちだけに、あからさまに表れてるそれが少々もったいない気もしないでもないが、そんな事を口にしようもんなら天狼滅牙辺りは覚悟しなきゃならなそうなのでやめておく。命は惜しい。
「いいじゃないのよ。撒いたんだし」
「せめて一言くらい声かけろよ」
「声かけてる間にここ通り過ぎちゃうって」
「…」
別に声をかける余裕を作ることがまったくできない訳でもなかったが、こういうのは行動で示すが早い。路地裏みっけたからそこ入ってやりすごしましょ、という間には、もう引き込めてるだろう。今みたいに。
青年もそこのとこは理解できたようで、仕方ないとばかりに息をはいた。こういうところは物分りがいいようで助かる。
とりあえずこういう時は皆で帝都の外に落ち合ってるとそう聞いたもんで、んじゃまぁ落ち着いたらここから出ますかと、そういうことになった。
路地裏から見上げる空は狭い。けどやっぱり、いい天気だ。
雲のかけらが建物の端っこからちらっと顔を覗かせはしたものの、雨とか曇りとかそういう兆しはまったくない。
こんな日にぼんやり部屋ん中かどっかで外を眺めるのもなかなかに乙なんだろう。もちろん、そんな暇はないが。
ちなみに今のこれは暇なんじゃなく猶予であって、今からこの青年と帝都の外へどう出ようか考えなきゃならない。青年なら今のここが帝都のどの辺りかは大体把握できてるんだろうし、そうだとしたらルブラン達に見つからないようなルートなんかも知ってるんだろう。
そう言い切れるのは、ここが貴族街じゃないって事を俺でも理解できてるからだが。
なにせ、こういう路地裏なんて場所は貴族様の街にゃない。あったとしても、こうやって体を滑り込ませるような無駄なスペースなんかもないだろう。俺はこういった路地裏こそ生活感溢れてるというか、これが本当の暮らしってもんだよなぁとしみじみ思うから嫌いじゃない。狭い空ってのもまた、いいもんだ。
そういう憶測その他でここって下町でしょと聞いてみたら、辺りを見回した後にそうだなと返事が戻ってきた。聞くところによると、ここから少しいけばいつも俺らが出入りする坂道の辺りに出るだろう、って話だ。この路地が、俺らの逃げてきた道とあの下町の出入り口を繋げてるようで、なんとまぁ運が向いてるもんだなぁと我ながらちょっと感心した。呆れたのは言うまでもない。
んじゃまぁ、バレないうちに行きましょうかね。と、路地を青年が言ってた方向に歩き出してすぐに、後ろから名前を呼ばれた。
「まぁだ怒ってんの?しつこい男は嫌われるわよ」
「いや、そもそも怒っちゃねえから。不満ではあったけど」
それじゃ何、と聞き返したら、ちょっと間があった後に、息切らしてないんだなと言われた。
そりゃまぁ普段は階段の上り下りとかひぃひぃ言っちゃいるが、そこまで年寄りになった覚えはない。て言うか、これしきのことでマジに息切れしてたら青年達についていけてないでしょうが。現実問題。
腐っても隊長主席ってもんよ。
そんな感じのことを返したら、やっぱりふうん、とだけ戻ってきた。ただそれは、興味がないからと言うよりも何か考えてるような節だ。
何を考えてるんだろうと思いかけて、あぁもしかして主席隊長とか口に出すとまずかったかなというのにぶち当たった。まぁその隊長殿は今帝都からものすっごく離れた場所にある神殿の下敷きになってるからどうでもいいんだが、青年達にとってはどうでもいいだなんて流せないことなんだろう。それは俺もよく分かってる。
許してくれなんていうつもりはまったくない。もしやり直せるとしても俺は、レイヴンとして青年らを騙して、シュヴァーンとしてあの場所で戦うんだろうから。ゆえに後悔もまったくなし。
「レイヴン」
「何?」
「あんた、普段どんな運動してたんだ?」
「残念。おっさんは運動キライなのよ。歳とると筋肉痛も遅れてやってくるし、すぐに疲れるし」
運動が嫌いというのは当たらずとも遠からずってところではあるが、筋肉痛云々は本当だ。だから今日も、後々筋肉痛がひどいんだろうなぁと考えると結構憂鬱な気分にならないこともない。
そんな風に答えてやったら、そういう意味じゃないと言葉を濁してきた。
「……あぁ、“兄貴”?それなら基礎体力作りに欠かさないトレーニングくらいはしてたわよ。今青年もやってるっしょ」
多分シュヴァーンのことを言ってるんだろうと思って言ってみれば当たってたらしく、あぁ、成る程と何か納得したようなよく分からない言葉がよこされた。
まぁ、本当のことを言えば青年のほうがずっと熱心にトレーニングしてると思うが。
騎士団として基礎体力が無いのは言語道断って事でトレーニングは欠かさずやってた。それは本当だし、天を射る矢に入り込んでからもやっぱり体力がものを言うってことでそれだけは欠かさなかったにしろ、それでも青年の方がずっと体を鍛えていると俺は思う。現に無駄な脂肪のないすらっとした長身がそれを物語っている訳だし。
それでも聞いてくるって事は何か気にかかったんだろう。気にかかってることはまぁ、話の流れからおおかた理解はできてるけどあえて口には出さないでおくことにした。
ここで何か言うのは薮蛇だ。
なんて、そんな事を考えてるうちに路地裏は終わっちゃって、目に見慣れた水路の流れが飛び込んできた。ルブランの声は聞こえない。完全に撒けたらしい。やーれやれっと。
その道の方へぱっと飛び出してから、大丈夫だからおいでと青年を手招きした。ほどなくして現れた青年は、なぜか不満顔に見えた。いや、普段から目つきキツいからそう見えるだけかも知れんが。
しかしこんないい天気なのになんでまた、往来で追いかけっこする羽目になったんだろう俺。しかも捕まる側で。
「おっさん、走るぞ」
とか軽く絶望してたら、さらに絶望するような言葉がよこされた。
いや、もう追っ手とかいないはずだよね?ルブラン達の声とか一切聞こえないし。第一皆と落ち合うって場所までなら歩いても十分行ける距離なんだし。
だからもう走る必要なんかないはずだし、あってたまるものかとも思うし。
て言うか、めんどい。
「嫌よ。さっき一緒に走ってあげたでしょーが。言ったっしょ?歳寄りはあとから筋肉痛がくるから怖いんだって」
「いや、なんか癪なもんで」
「はぁ?何がよ」
「持久力がおっさんに劣ってたことが」
「え」
見れば青年は、癪とか言いつつも実に面白そうな笑みを浮かべている。いや、面白そうというよりも何か企んでるとかそんな感じの方が正しいか。まぁそれはどうでもいいとして、それよりも忌々しきことは。
「だからフィエルティアの方まで付き合ってもらおうか、レイヴンさん?」
俺が思わぬところで、青年の闘争心に火をつけたことだ。
いやでも青年より走り始めたのは遅いし、速度だって青年のがずっと早かったし、別に持久力競い合ってこの先何か得するとも思えないし、そもそもさっき走ったばっかなんだし、て言うか走りたくないってさっき言ったし。
なんて、あらゆる言い訳を持ち出してはみたものの、一度こうなった青年がどうにもならないこともまた理解できていた。
そのうえ、断ったらしばらく甘味祭りなとか言われたら、もう俺に逃げる術なんかない訳で。
しょうがないから承諾したら、じゃあ行くぞと言わんばかりに走り出されて、今度はひぃひぃそれを追っかける羽目になった。のは、もう言うまでもないだろう。
つーか、せめて「付き合え」って言うなら、もっといい雰囲気の時に言ってほしいもんだわ。
そんな事を考えながら走る間目に映った空は、相変わらず憎らしいくらいに澄み切っていた。
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