澄んだ青空には、地上を見下ろすように雲がのんびりと泳いでいる。吹き抜ける風は髪を揺らし、頬をくすぐってその先へと流れる。木々も、草原の葉も、遊ぶようにさわさわと心地のいい音色を奏でていた。
かみ殺したような欠伸が漏れたのは、ちょうどそんな時だ。
その主である黒髪の青年は眠そう、と言うよりも退屈そうに、細めた紫紺の瞳をすうと遠くへ向けていた。
その瞳に映るのは、魔物の群れ。そして、それらと戦っている仲間の姿。光景としては、世界救済とか言う大それた旅をしている身だけあって、最早見慣れたものといえなくもない。
唯一違うとするならば、そこに青年の姿がないだけだ。
金髪おさげの海賊少女も、身の丈以上の斧を振るう少年も、戦いはもともと得手ではないだろう桃色の髪を持つ姫や魔導少女でさえそこにいるというのに。何故か、こういう戦いを普段から楽しんでいる彼が傍観する側に回されている。
…なんでオレ、こうして傍観する羽目になってるんだっけか。
漏れた欠伸と一緒に滲んだ涙をぬぐい青年、ユーリはぼんやりと考える。
体調不良だからと言う理由は、無論ない。
余程戦いに支障が出ると自らが判断しない限りは戦闘を休むなんてもっての他であるし(そのせいで何度もフレンにお説教を食らっているはずなのだが、ユーリはすべて右から左へと受け流しているのかお説教の効果が表れた試しなどない)、そもそもユーリという人間はリタに言わせるところの「戦闘バカ」である。こうして明確な理由もなしに休んでいるのは、どうにも体が鈍って仕方がない。
何より、退屈だ。
三度溢れる欠伸に目を瞬かせ、ユーリは軽く肩を回す。こきり、と軽い音がした。
動かさない体が、気だるさからか重く感じる。この陽気だ、放っておけばそのまま転寝でもしてしまいそうな気がしないでもない。
それはさすがにまずいなと軽く首を横に振り、何でもいいから体を動かそうかと立ち上がった。
の、だが。
「何処に行くのかしら」
すぐ後ろからの耳慣れた声に、引き止められてしまった。
のろのろと視線を向けた先には、クリティアの女がにこやかに佇んでいる。
ユーリは軽く肩をすくめてみせた。
「遠くにゃいかねえよ。ちょっとだけ体動かしてこようと思ってな」
「それもいいけど、たまにはそういうのじゃなくて、世間話でもどう?」
「ジュディとか」
「おじさまもフレンも手が離せないようだから。それとも、私と話すのは嫌かしら」
柔らかく目を細め、ジュディスが問いかける。明確な答えこそユーリが返すことはなかったが、仕方がないとばかりに目を細め再び同じ場所へ腰を下ろした。誘いを断る気も、理由もないらしい。
ありがとう、と微笑み、彼女はユーリの隣へ座った。
「で、何かオレに話したいことでもあるのか」
「ここまできてあなただけに、って言う隠し事はないわ」
「ま、そうだろうな。けど、だったら何でわざわざ今なんだ?」
「暇つぶしよ。単なる」
「んじゃ、そういうことにしとくか」
茶化すように言いながら、ぐっと体を伸ばす。長い溜め息が、少し開いた口の隙間から零れ落ちた。
隣から「意地悪な人ね」と同じく冗談交じりの声がしたのは気のせいだろうと、そういうことにしておく。
隣で少年少女の戦いっぷりをのんびり観戦しているジュディスを一瞥するも、再び紫紺は戦闘の中心へと向けられる。
眺めているだけは退屈だ。やはり。
「暇ね」
ジュディスが、そんな様子など微塵も感じさせない穏やかな口調で呟いた。
言葉にだけなら全面的に同意できると、ユーリもゆるゆる頷く。
「けど、たまには悪くないわ」
「そうか?オレはさっきから眠くて仕方ねえよ」
「なら、良いことよ」
「なんで」
「気持ちが波打っていないと言うことだもの。それは」
「眠くなるくらい退屈だってことは分かってっけど、いいことには思えないな」
「…あなたは」
杏色の瞳が細くなる。
普段から滅多なことで激情を露にすることのない彼女が、唯一、誰かへ向けるその目には感情を込める。今のように。
それはただ真っ直ぐに、怪訝そうな紫紺とぶつかった。
「なんでも一人で背負い込もうとするでしょう?」
「さてどうだろうな。て言うか、それと退屈なのがいいことってのはどういう接点があるんだ」
純粋に気になるからというよりは、確かめるようにそう訊いてみる。ジュディスが何を思ってそう言ったのか、その真意が分からない限りはこちらから無闇に話を進めることはできない。
あまり良くない言い方をすれば出方を探っているのだが、普段から言動の真意を読みにくい彼女相手に用心は越したことなどないのだ。それがわざとではなく殆ど素なのだから、なお性質が悪い。
それなりに仲間として過ごしてはきたものの、彼女の場合は今のように言動がさっぱり読めないことは今でもよくある。ラピードやフレンほど長い付き合いを持たないと、ジュディスのようなタイプの人間は自分に理解できないのだろう。
とは言え、彼女の奥底まで理解したいと思うほど踏み込む気はないが。
相変わらずジュディスは笑みを崩さない。
ただ、そこに浮かぶ色合いが変わったのを、ユーリは肌で感じた。
「退屈がいいことだと言うよりも、穏やかな気分を保てているほうがいいことだと言ったつもりだったのだけど。違うように伝わったのね」
「どっちも似たような意味だろ。それより、ジュディから見たオレはそんなに普段から疲れてるのか?」
仲間内で憑かれてるだのお払いしてもらえだの好き勝手言われているとはいえども、顔に出るほどではないと思っているのだが。
もしそういうのが表に出ているのだとしたら、酷い顔つきなのかも知れないな、などと人事のように思う。
第一、疲れが顔に出ていたのだとしたら隣の彼女より、今眼前で魔物の群れ相手に奮闘するあの姫のほうが黙っていないはずだ。
「いいえ。もしそうなら、私よりも先にエステルが気づくんじゃないかしら」
と考えていた矢先に、ほとんど同じことを口にする。それには、まぁそうだろうなと相槌を打つだけに留めておいた。
エステルの性格をそれなりではあれど理解している以上、否定する要素など見当たらない。
かと言って、あったとしても別に否定するほどでもない。
「それで、穏やかなのはそんなにいいことなのか?つってもジュディの見立てどおり常に切羽詰まってるとかそういうのは一切ないんだけど」
「そうね。いいことだわ。特にあなたにとっては」
「ふうん…って、なんでオレにとってはなんだよ」
「言わなかったかしら?一人で何でも背負い込もうとするって」
「理由か?それ」
「ええ。立派な理由よ」
風がふわりと髪を躍らせた。
少年少女の奮闘は、もう少しだけ終わりそうにない。
杏色の瞳は、相変わらずこちらを向いている。
静かに。
「多かれ少なかれ感じてるんじゃないかって負担を、和らげることができているって証拠だもの」
「……いまいちわかんねぇんだけど、ストレス和らげるために休んどけってことなのか?それは」
「そうなるでしょうね」
「うーん」
無造作にがりがりと頭を掻いた。
そういう気持ちは、それこそ心にじんと響くくらい嬉しい。
嬉しい、のだが。
「って言われてもな」
「嫌かしら?」
「嫌って言うか、じっとしとくのはどうにも性に合わないんだよ。むしろ逆に疲れる」
「それは困ったわね。逆効果になるなんてあの子たちも考えてなかったはずよ」
「あの子たち、って…」
「ええ。あなたが考えてる通り」
思わず視線が、魔物の群れに一生懸命立ち向かう少年少女へ向く。
肩で息をする彼らはそれでも、すぐ近くにいるユーリやジュディスへ代わってくれと弱音を吐くことはなかった。
青年の口元に、なんとも言えないような笑みが浮かんだ。
呆れているとも、困っているとも取れるような。
「あいつら、そんなこと心配してんのかよ」
「あの子達なりの心遣いよ、きっと」
「余計なお世話だっての」
「その割には嬉しそうね」
「呆れてんだよ。こんくらいで潰れてるんだったら、とっくの昔に潰れてるじゃねえか」
空は相変わらずのんびりと、雲が泳いでいる。風は髪を遊ばせる。
退屈だ。とても。
だが。
「悪くないな。たまには」
「良かったわ。あなたのことだから、耐え切れずにそこらを走ってくるなんて言いそうだったから」
「せっかくもらったご好意を無にすんのは、さすがに気が引けるんでね」
本当かしら?と面白そうにジュディスは聞いた。
答えは返さない。
どうせ明確な言葉にしなくても、彼女にはすべてお見通しなのだろうから。
「そんじゃま、参戦させてくれるまではゆっくりさせてもらうとするか」
「いつになるかしらね」
「このままずっとってのは勘弁だけどな」
軽く肩を揉むようにしながら言った、その矢先。
慣れた声が飛び交うのを耳が拾う。
「ちょっちょっとフレン君?何してんの」
「何って、料理を」
「いやいやいやいや、今日の当番青年でしょうがっ!」
「ですが、ここ最近はずっとユーリでしょう?いくら彼が戦闘に参加させていないからといってまかせっきりはどうかと」
「う……だって青年苦じゃないとか言うからさー…」
「ユーリは我慢しすぎなんですよ。苦じゃないとは言いますが、本当は」
「青年は確かにそうだけどさー、だからってフレン君がしなくてもいいと思うわけよ。ジュディスちゃんだっているじゃない?料理なら」
「ジュディスも先週ずっと当番でしたよ。だから僕が」
「いや、あの、だからね……ちょっとせいねーん!何処にいんのー?!」
ご指名を受けてしまった。
聞かなかったことにしようかと一瞬思ったが、疲れてこちらに戻ってくるであろう彼らのためにも、ここは行かなければならないだろう。
今度は違う意味で溜め息が漏れた。
「モテモテね」
「全くもって嬉しくねえし。て言うか、この調子だとオレが本当の意味で休むってのは無理そうだな」
やれやれと笑いながら立ち上がる隣でジュディスは、にこやかに彼を見送る。
それに手を振って答えると、少し離れた先の、最早半泣きで青年の幼馴染みを止めにかかる中年のところへと足を向けた。
空を泳ぐ雲は相変わらず、のんびりとこちらを見下ろしていた。
[0回]
PR