起床時間、正午。
寝室なのか物置なのかどうにも判断に困る部屋にある、これだけはかろうじて寝台と判別できるそこからのそりと、小柄なシルエットが蠢いた。掛け布を引きずったまま気だるげに辺りを見回す翡翠には普段の輝きはなく、口から零れるのも眠いだのだるいだのと言った、寝起きの悪い人間そのものの言葉でしかない。栗色の髪を無造作にがしがしとかきむしる様など、本当に女性なのか疑いたくなってしまう。
それでも彼女は、そんなことなど構わないといった風で寝台からふらりと飛び降りた。あーねっむ、と奇妙な言葉が遠慮なく口から零れていくが、そもそもここは彼女の家なので遠慮する相手もいない。
「はず」である。
本当ならば。
そんな彼女の目がふと、机の上へ置かれたメモらしき紙切れをとらえるまでは、確かに彼女が遠慮する必要もなかったのだ。
彼女は、あん?とどこぞの不良よろしくその紙切れを凝視し、だが数秒後にはそれの存在などなかったかのように洗面台のほうへふらふらと去っていった。蛇口から水を出して顔を思い切り洗い、少し曇った鏡に己の眠そうな様を映し出して頬を思い切り叩き、傍に用意していたタオルで顔を拭いた。
そして台所も兼ねている小ぢんまりとした居間へ、要するに紙切れが机の上にぽつりと放置されたそこへ戻って、再び紙切れに気づく。気づくというより、思い出すと言った方が正しいのかも知れないが。
なによこれ、と掠れた声が静かな部屋に響いて、それと同時に細い指が紙切れをつまみあげた。そこに書かれた文字を、ゆっくりと翡翠が追っていく。追いながら、どんどんその目の中へ色んな感情が浮かんでは消え、ないまぜになってぐらぐらと煮え始めた。
そして。
ぐしゃっと音を立て、紙切れがごみ屑になった瞬間に、ふっざけんなおっさんの分際でぇぇぇ!!などといった怒号が、穏やかな午後にまどろむ学術都市アスピオの隅から空へのぼっていった。
ちょうどリタを尋ねてアスピオに来ていたジュディスは、穏やかじゃないわねとクリティア特有の暢気っぷりを発揮しながら彼女の家の前にいた。
数分もしないうちに、血相を変えた魔導少女が表へ出てくるだろう。そこを捉えれば、すれ違うことなどまず起こらないはずだ。
そして数分と経たないうちに、彼女の思惑は当たることとなる。
肩くらいまでは伸びたであろう栗色の髪を振り乱し、翡翠を思い切り吊り上げたリタが、ドアを壊す勢いで思い切り開け放ったからだ。
蝶番がきしきしと可哀想な悲鳴をあげるのもお構いなしに勢い任せで扉を閉め切った彼女は、ほどなくして目の前に佇む優雅なクリティアの女に気づいたようだった。先程の全開な怒りはどこへやら、あれ?あんたなんで、と間の抜けたような声を発している。
「お久しぶりね、リタ」
「もうそんなに経つっけ……て言うか、あんたここに何の用」
「あなた、探したい人がいるんでしょう?歩いていくより、バウルに乗っていった方が早いと思うわ」
「え?ええ、そうね。ってちょっと!なんであたしが誰か探してるって」
「で、行くの?行かないの?」
私はどちらでもいいわよ、とジュディスは笑う。思わず黙り込んだリタはうー、だのあー、だのと呟き俯いていたが、
すぐに深呼吸をして答えた。
「…行くわ」
「あらそう」
じゃあまずは帝都?とジュディスが聞けば、リタはすっかりぐしゃぐしゃになった紙切れを持ったまま素直に頷いた。
天才と謳われる魔導少女にも、克服しかねるような弱点はある。少しばかり毛色が異なるものの「科学者」である立場上、いわゆるお化けや幽霊と言った類の非科学的なものを嫌う傾向にあるし、地面と言う安全に立っていられる場所から遠く離れるせいか、高い場所も好まない。
そして何より、とっさの出来事にはめっぽう弱い。
普段の頭の回転の速さは、当時自分を含め共に旅をしていた仲間の内でもずば抜けていたし、その分行動も一貫して迷うことなど殆どなかった。が、なんの前触れも無く何かしら理解の範疇をこえた物事をぶつけてこられると、頭の回転が追いつかないのか戸惑いがちになるのである。もっとも、そのような理解をこえる突発的なことを同じようにユーリへ突然ぶつけても彼はさらりと流していたので、頭の回転が云々よりも単なる不慣れが問題なのであろうが。
現に、今回もそのせいで彼女は、声にすると延々恨み言が続くであろう鬱憤を顔に表しているのだから。
「でも、帝都で待ってるなんてロマンチックじゃない」
でしょう?と目を細めれば即、何がロマンチックだ人様の家に勝手にあがりこんで貴重な紙とインクを無断に借りた挙句帝都で云々なんてふざけたこと抜かすことのどこが、と、何処で息継ぎしているのか分からない一本の言葉が滑らかに、かつ早口に形のいい唇から紡がれた。
「て言うか、“追伸:女の子なんだから寝室くらいぐっちゃぐちゃにせんと可愛くしたら?あと、ちゃんと起きたら身だしなみに気をつけるのよー。髪とかぼさぼさにしないで”…なーんて余計なお世話なのよ!大体本文より追伸が長いってどういうことなの!」
「怒るポイントがずれてないかしら?」
「どーでもいいわよ!それよりあたしは、あのおっさん見つけてぶっ飛ばすまで気が治まりそうもないわ」
どう料理してやろうか、などと、本人がいたら顔面蒼白間違いない台詞を遠慮も無くリタは吐き捨てる。この様子では、帝都で騒ぎを起こしたら後が面倒なのだけど、と言うジュディスの言葉もろくに聞こえていないのだろう。
仕方ない、とジュディスは小さく笑う。
こうなった魔導少女は、誰にも止められないのだ。
***
「リタじゃないか、久しいね」
「なんだお前、下町なんかに何しに来た?」
以前旅をしてた頃、彼女をその道中へと連れ込んだ男は下町の出身だった。そのせいか何度もここから帝都へ足を運んだし、ここ以外から帝都へ入る、という事をあまり経験したことはなかった。
その感覚で下町に足を踏み入れてしまった彼女はすぐ、懐かしい顔二つと対面することとなってしまうのだが。
「ああフレン、久しぶりね。で、そっちはー…ユーリ?」
何で半疑問系なんだよ、とフレンの隣に立つユーリがあからさまに呆れたような紫紺をリタへ向ける。無理も無いでしょ、あんた変わりすぎなのよと、ユーリの騎士服とひとつに結い上げられている髪を見ながらリタも負けじと目を細める。
そのことなんだけど、と互いにじっとり半眼を向け合う二人に割って入り、フレンが簡単な説明を始めた。
曰く、ユーリは下町が完全に落ち着くまでギルドを再開はできない。だからその間だけでも補佐の真似事のようなことをやらせている。今ユーリが身に纏うのは現皇帝ヨーデルがあの戦いのあと彼に与えた自由聖騎士の称号のもので、式典用ではあるが城への出入りがしやすいであろうから城で補佐紛いの仕事をやる間は着てもらうようにしている。
正式に騎士団長として任命された今、柔軟な考えができるものが騎士団に欲しいのだと、つまりはそういうことらしい。
「よく断らなかったわね。あんた」
「断らないんじゃなくて、断れなかったんだよ。現皇帝にフレンに、あとあの猫目姉ちゃんにまでやってくれって言われちゃあな」
「は?あの女だったら自分が率先して補佐とかやりそうなのに、どういう風の吹きまわしよ」
「オレが聞きてぇよそんなの。フレンの隣が似合うようになるまで、自分はそこに立てないんだとよ」
本当はこんな窮屈な格好御免なんだがな、とユーリは肩をすくめる。理由は分からないが、とにかくフレンの隣にいることについてはそれなりに許しをもらったことになるのだろう。何だかんだと言いながらまんざらでもなさそうな彼に、素直じゃないわよねと口の中だけで呟いた。
「ところで、リタは何の用事でここに?」
ふと、フレンが思い出したかのように尋ねる。それで一気にそのことが頭を占めたか、呟きの代わりにあのおっさん何処?帝都にいるんでしょ?と言う言葉が溢れてきた。もちろん、口調は言うまでも無く怒っている。
何やったんだあのおっさんは…とあからさまに迷惑そうな色を隠さないユーリは、それでもがさがさと騎士服の上着を漁りだす。
レイヴンさんならもうここにはいないよ。と、そう言う親友とリタの前に、紙切れを突き出した。
「これ。おっさんから」
「また?」
即奪い取って目を通したリタは、再びその紙切れをぐっしゃぐしゃに丸める。そのまま下町を流れるどぶ川へそれを投棄しそうな勢いだったので、ごみ捨てんなよ拾うの面倒なんだから、とやんわりユーリが咎めた。
「あ、あのおっさん~……!人のこと馬鹿にすんのも大概にしなさいよ!」
「鬱憤晴らすなら本人にな。ここで何かにあたるんじゃねぇぞ」
「分かってるわよ!」
と言いながら今にも何かぶん殴りそうな勢いのリタに、分かってねぇだろ、とユーリがうなだれる。その傍で、本人にやれと言うのもどうかと思うんだけど…とフレンは困ったような笑いを浮かべていた。
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